Vol.57 ハイヤーセルフを超えて【二元性からの解放③】

2017. 6. 23 配信

~すべては”私”なくして自動的に起きている~

 

こんにちは♪
透視リーダー☆ちはるです。

来月7月7日(金)より、ハイヤーセルフスクール第2期受講お申込みの受付を開始いたします。↓
http://sunlight-inc.jp/session/school.html

ハイヤーセルフスクールでは、グラウンディングや光瞑想などの基本ワークのほか、透視リーディングやヒーリングを実践しながら、ハイヤーセルフ(高次の自己)とのつながりを深めていきます。

スクールの受講を通して自分本来のパワーを取り戻し、最高の可能性を最速で楽しみながら実現していく、まったく新しいプロセスが始まることでしょう。

今年の春に卒業された第1期ご受講生たちの、受講の体験エピソードを、ぜひご覧くださいね♪↓
http://sunlight-inc.jp/session/koe_school.html

 

受講お申込みの先行受付につきましては、近日、サンライトのLINEにてご案内いたしますので、メッセージの配信まで、今しばらくお待ちくださいませ。

★サンライトのLINE ID:@sunlight-inc
スマホからは、こちらのURLをクリック↓
http://line.me/ti/p/%40sunlight-inc
※PCからクリックすると、QRコードが表示されます。

・・・・・・・・*・・・・・・・・*・・・・・・・・*・・・・・・・・

ちょうど一年ほど前、昨年の春頃のことです。

非二元(解放)のメッセンジャーの方のお話会で、ある参加者の女性がこんな質問をしていました。

「亡くなった姑への怒りの感情が今も消えないのですが、どうしたらいいのでしょうか?」

すると、メッセンジャーの方から、シンプルにひと言、こう返答がありました。

「それが起きているんですね」

 

人はいつでも自分の役に立つものを求めています。

自分に役立つ情報を取り入れて、問題を解決したり、欲しいものを手に入れたりして、「私」のストーリーをよりよくしていこうとしています。

世の中で発信されているメッセージの99.9%以上は、そうした「私」に向けて、「私」から発信されている、「私」の役に立つ、「私」を満たすためのメッセージ。
「私」と「私以外」という二元性に基いたメッセージです。

そのほかの0.1%に満たないメッセージは、「私はいない」という非二元のメッセージ。

「全体」(空・無)から発信されている非二元のメッセージは、「私」に向けられているものではなく、「私」の役に立つものでもなければ、「私」を満足させるためのものでもありません。

それどころか、「私」を粉々に打ち砕いて、再起不能に落とし入れる可能性さえあるでしょう。

知りたい・満たされたい「私」を決して満たすことのない、「私」への妥協が一切ない、探求の入り込む隙のないそのメッセージによって、「私」が打ち砕かれて「私」が静まっていき、代わりに、「私」に覆われていた究極の秘密が明かされる余地が生まれることでしょう。

 

前回に引き続き、二元の夢の解放をテーマに、今回は、「解放」ということに焦点を当ててお伝えしていきますね。

 

 

最初に、これまでの内容を振り返っておきましょう。

全体から切り離された「個」という幻想の「私」は、足りない不満足な感覚を満たそうと、よりよい次を求め続けています。

「私」が本当に求めているものとは、よりよい次ではなく、不満足と苦しみのもとである「私」それ自体から解放されること、すなわち、「私」という分離の夢から醒めること。

「私」は分離の夢物語の現実から醒めたところにある、「私」が不在のありのままの本当の現実こそを求めている。
同時に、「私」が失われることを絶対的に拒んでもいて、「私」という分離の夢から解放されるすべは何もないとお話ししてきました。

 

それでは、「私」という分離の夢から醒めるとは、具体的には、どのようなことなのでしょうか?

「私」から解放されるすべがないというのは、いったいどうしてなのでしょう?

まずは、分離の夢から醒めるということについて、ここで、今一度明確にしておきましょう。

 

わかりやすい例えを挙げてみましょう。

ちょっと考えてみてください。
夢の途中で眠りから目が覚めたときのことを。

そのとき、夢から醒めたのは誰でしょうか?
むろん、夢の中の主人公「私」ではありませんよね?

夢の中の「私」が夢から醒めたということでもなければ、ましてや、夢の中の「私」が夢から醒めようと意図したり、努力をしたから目が覚めたということでもありません。

どんなに美しくすばらしい夢であろうと、たとえどれほど悲惨で恐ろしい悪夢であろうと、所詮は夢。
夢の中の「私」も夢そのものも、夢から醒めたとたんに、すべてが一瞬にして消え失せてしまいます。

夢の中で起きたことのすべては、本当は何ひとつ起きていなかったのだと、目覚めた瞬間にわかります。

 

私たちが住まうこの分離の夢物語の現実は、私たちが寝ている間に見ている夢のようなもの。
「私」という分離の夢から醒める(=解放)というのは、まさに前述の話のごとく、夢の途中で眠りから目が覚めるようなものです。

「私」が夢から醒めるのではありません。
「私」も夢そのものも消えるのです。

「私」という自己意識は幻想であり、「私」はもともとどこにもいなくて、分離の夢物語の現実で起きたことのすべては、本当は何も起きていなかったということが、目覚めと同時に明らかになるのです。

さらに言えば、「私」も解放も分離の夢物語のことであって、実際には、解放され得る誰かもいなければ、解放それ自体も起きてはいないことになります。

 

分離の世界の住人たちは、いつでも、今よりほかのよりよい次へと向かっています。

よりよい自分になって、人生をよりよくしていこうと、スピリチュアルな世界を探求して、自分に役立つさまざまな方法や教えを求めていたり、そうした人たちの中には、覚醒への近道と信じて、精神的、霊的な成長に励んでいる人たちもいます。

しかし、スピリチュアルな世界のことも、こうすればこうなるというような因果関係も、どこかにたどり着くための方法や道や教えも、すべては、「私」という分離の夢物語のストーリー。

見かけの上では、努力と成果という因果関係や、方法や道や教えというものがあって、自分が決めて、自分の意志で動いていて、よりよい自分になって、人生をよりよくしていこうと自分がコントロールしているかのように見えてはいても、本当は、すべては「私」なくして自動的に起きているだけ。

スピリチュアルな世界を探求して、精神的、霊的な成長に努めていけば、その結果、分離の夢から醒める、というわけではありません。

夢物語の中の「私」が夢から醒めようと意図して、瞑想や浄化に日々励んで努力をしているからといって、眠りから目覚めるわけではないのです。

 

そもそも、解放(=覚醒)というのは、スピリチュアルな世界についての話なのではなく、分離の夢から解放されたところにある、分離のないありのままの本当の現実とは、分離の夢物語のストーリーの延長線上にはありません。

どれほど美しくすばらしいストーリーであろうが、どれほど悲惨で恐ろしいストーリーであろうが、「私」がどのような人物で、何を思い、何をしていようが、そうした分離の夢物語のストーリーは、解放それ自体とはまったく無関係なのです。

スピリチュアルな世界を探求していようが、スピリチュアルな世界に無関心であろうが。
運動や瞑想や健康的な食生活に取り組んでいようが、お酒やタバコに溺れて不健康な生活をしていようが。
世のため人のために善意を尽くしていようが、悪事を重ねて牢獄に閉じ込められていようが。
精神性、霊性の高い人物であろうがそうでなかろうが、クンダリーニ上昇や一瞥の体験があろうがなかろうが。
どんなストーリーのどのような状況下においても、誰にでも、解放は起こり得ます。
(実際には、誰かに対して起こるというわけではありませんが)

夢の途中でふいに眠りから目が覚めるように、ある朝、突然に、何の前触れもなく、「私」という分離の夢から醒めるかもしれないのです。

 

怒りの感情が湧いていて、それをどうにかしたいのなら、この分離の夢物語の現実においては、それをどうにかするための、自分に役立つ有益なたくさんの方法を見つけることができるでしょう。

「私」はそれらの方法によって自らを癒し、「私」のストーリーをよりよくしていくことができるでしょう。

しかし、本当のところは、起こることのすべては、「私」が起こしているのでなく、「全体」から起きています。

怒りの感情が湧いていることも、それをどうにかしたいと思うことも、それをどうにかしようとすることも。
「私」が怒りを感じていて、「私」がそれをどうにかしたいと思っていて、「私」がそれをどうにかしていくという自己意識による錯覚も。
これら起きていることのすべては、意味なく理由もなく、「全体」の表現として、「全体」から自動的に起きています。

そこには、努力と成果という因果関係も、何かをどうにかするための方法や道や教えもなければ、何かをどうにかすることのできる「私」それ自体がいません。

 

解放が起きるのなら、それは、自動的に起きています。

「私」の努力と「私」の成果という因果関係も、「私」の意志や意図も、「私」によるコントロールもない、「私」を超えたところから。

「私」がどれほど解放を求めたところで、解放のすべはありません。
「私」も「私」の夢物語も、「全体」から自動的に起きていて、夢の中の「私」が夢を消し去ることなどできないのですから。

 

「私」はどうにかしたいといつも希望を抱いているのに、「私」はどうにもできないのではなくて、何かをできる「私」がもともといないというのですから、解放というテーマは、まるで「私」の役には立たない、なんと無益で絶望的な話なのでしょう(笑)

 

最後に、もうひとつ。

解放を求めたところで、解放のすべはないというのが本当の現実ではありますが、一方で、「私」が主人公の夢物語の現実においては、解放へと近づいていく(ように見える)アプローチがあります。

そのアプローチとは、何でしょう?

 

答えは、禅画「十牛図」にあります。
*十牛図 http://goo.gl/jHU39d
(出典:ウィキペディア2017.6.23現在)

解放への鍵、それは、十牛図の「牛」。

牛を躾けて、牛とつながり、一体となることが、この分離の夢物語の世界で、夢の城壁を限りなく薄くしていく鍵となるのです。

 

それでは、牛とはいったい何でしょう?
牛とつながるとは、具体的には、どのようなことなのでしょうか?

次回は、これらのことについて明らかにしながら、解放への手がかりをたどっていきますね。

 

夢から醒める夢物語を楽しんでいきましょう.。.:*・☆

 

最後までお読みいただきありがとうございました☆彡

プロフィール

クリアサイト認定透視ヒーラー

荻野 智晴

上級透視リーダー、上級ヒーラー。 1997年、クリアサイトジャパン「クレアボヤンススクール」「エナジェティック・メディスンスクール」修了。

サンライトの無料ハイヤーセルフ講座
メルマガ

ハイヤーセルフとつながり
豊かさあふれる現実を創造するメソッドをお届けします

読者購読規約
powered by まぐまぐ!

LINE登録

無料ヒーリングなどLINE登録者様限定のお得な情報をお届けします

友だち追加数
ハイヤーセルフ・リーディングハイヤーセルフ・リーディング
top banner video