2017. 3. 24 配信
~すべては意味なく、ただ起きている~
こんにちは♪
透視リーダー☆ちはるです。
ただ今卒業シーズン真っ只中、終わりと新しい始まりの季節ですね。
サンライトでも、先日、ハイヤーセルフスクール第1期のご受講生が笑顔いっぱいに卒業されました。
スクール開講という新しいチャレンジに試行錯誤しつつも、みるみるパワーアップしていくご受講生に励まされながら、私自身も大きくシフトし、多くを学んだ半年間でした。
スクール第1期ご受講のみなさまと、そして、体験セッションにご参加いただいたみなさまへも、重ねまして心より感謝申し上げます。
サンライトにご縁をいただいたみなさまが、これからも豊かさあふれる日々を謳歌されますように.。.:*・☆
スクール第2期の開講は、本年10月を予定しております。
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ある人気ブロガーの方のブログに、最近、こんな興味深い記事を見つけました。
「あらゆる夢は自我から生じています。
どんなに美しく崇高な夢も同じです。
人類の幸せ、世界の平和、そして、自身の覚醒さえもです。
自我自体も夢であり、夢は希望を持たせるだけで、夢は苦しみを作り出す元凶であり、本当に探しているのは目覚めでしかありません。
でも、自我と自我が持つ夢のすべてを、我々は手放す用意はあるでしょうか。
ここに、二人のマスターがいます。
一人はあなたの夢を壊そうとします。
それどころか、あなた自身を粉々にしようと待ち構えています。
もう一人は、あなたの夢を強化してくれます。
あなたが精神的、霊的に成長するための深遠な知識を提供してくれます。
さて、どちらのマスターに人気が集まるでしょう?」
さて、どちらのマスターにあなたは惹かれますか?
「私」という二元の夢の解放をテーマに、今回は、夢から目覚めた世界へと話を進めていきますね。
最初に、前回の内容を振り返っておきましょう。
「全体」から切り離された「個」という幻想の「私」は、満たされない不満足な感覚と苦しみから逃れようと、「私」を満たしてくれるよりよい次を求め続けています。
(私=分離=不満足)
満たされようと求め続けてみたところで、「私」そのものが不満足感と苦しみのもとであるがゆえに、「私」は満ち足りることはありません。
「私」が本当に求めているのは、不満足感と苦しみのもとである「私」それ自体から解放されること(=自己の不在)。
(十牛図「8.人牛倶忘」 )
言い換えれば、「私」という分離の夢から醒めたところにある、分離のない完全に満ち足りた「全体」=ありのままの世界こそを本当は求めているのです。
(十牛図「9.返本還源」 )
ならば、「私」という分離の夢から醒めるためには、いったいどうすればよいのでしょう?
「私」から解放される手立てはあるのでしょうか?
そもそも、分離のない完全に満ち足りた「全体」=ありのままの世界とは、いかなるものなのでしょうか?
ここで、まずは、「分離の世界」と「ありのままの世界」の違いについて明らかにしておきましょう。
◆分離(二元)の世界:十牛図1~7
「私」が主人公の、不満足と苦しみに基いた夢物語の現実
・「私」という自己意識=中心点がある。
・世界には「私」(主体)と「私以外」(客体)がある。
・過去・現在・未来の直線的な時間軸の中にある。
・原因と結果という因果関係がある。
・起きていることに意味や理由がある。
・人生には意味や目的がある。
・方法、道、教えがある。
・自由意志と選択がある。
(私が決めて、私の意志で行動している)
・「私」は人生をコントロールしている。
・「私」は知りたい。
・すべては「私」に起きていて、「私」のものである。
(=私の肉体、私の思考、私の感情、私の家族、私の経験・・)
・「私」は満たされようとよりよい次を求め続けている。
◆ありのまま(非二元)の世界:十牛図8~10
「私」が不在の、苦しみのない完全に満ち足りた本当の現実
・「私」という自己意識=中心点がない。
・無(全体)があらゆるすべてとして現れている。
・時間は存在しない。
・原因と結果という因果関係は存在しない。
・すべては意味なく、ただ起きている。
・人生というストーリーは存在しない。
・方法、道、教えは存在しない。
・自由意志や選択は存在しない。
・コントロールは存在しない。
・何かを知り得る存在がいない。
・何かを個人的にとらえたり、何かを所有できる存在がいない。
・すべてが完璧であり、すでに満たされている。
それでは、分離の世界からありのままの世界へのシフト(=覚醒)は、いかにして起こる(ように見える)のでしょうか?
前述の両者の違いをもとに、分離の夢物語の主人公「私」からの解放について描写してみましょう。
「私」という自己意識が「全体」へと溶けて、「個」の幻想が消え去り、それまで「私」によって覆い隠されていたありのままの世界がおのずと露わになります。
私という中心点がなくなり、主体と客体という相対関係(二元性)の幻想が消えて、分離のない完全に満ち足りた「全体」だけが残ります。
「私」という夢から醒めるやいなや、もはやそこには、それを覚醒であると認識したり、覚醒体験として所有できるような存在はいません。
分離のない「全体」には、知られるべきことや知られ得る何かもなければ、何かを認識したり何かを所有し得る余地も必要もないのです。
「私」という夢から醒めるというのは、夢から醒めた「私」が満ち足りた世界を認識し、満ち足りた体験を我がものとして所有できて、「私」が永遠に満たされるという話なのではありません。
「私」が夢から醒めるのではなく、「私」が満たされるのでもなく、もともと完全に満ち足りたすべてだけがあり、分離の「私」はどこにもいないということです。
「私」という自己意識の幻想が消え去ったところには、肉体はあっても、そこには誰もいません。
肉体が転んで痛みが生じていようが、遅刻しそうで焦りが湧いていようが、それらの出来事や経験、思考や感情や感覚を、「私」に起きていることとして個人的にとらえたり、「私」のものとして所有し得る誰かがいません。
「私」が経験しているのではなく、ただ経験だけがあります。
「私」が考え「私」が感じているのではなく、思考や感情や感覚が、「私」なくして自動的に起きています。
分離のない完全に満ち足りたありのままの世界では、痛みが生じていようが、焦りが湧いていようが、鳥のフンが頭に落ちようが、誹謗中傷の的になろうが、それらが「私」に起きているととらえて苦しむような個人は、どこにもいないのです。
「私」、肉体、思考、感情、感覚、経験、イメージ、声、椅子、本、スマホ、冷蔵庫、部屋、壁、窓、建物、車、太陽、光、色、音、匂い、風、水、動物、自然、宇宙・・・。
これら森羅万象のすべてが「全体」の現れとして、無時間の中で、ただ起きていて、ありのままの起きていることだけがあります。
「私」が不在の本当の現実においては、原因と結果という因果関係も、いかなる意志もコントロールの力も不在であり、起きていることにいかなる意味も理由もありません。
完全に満ち足りたありのままの世界(本当の現実)とは、遠く離れたどこかの別次元に存在しているわけではなく、分離の世界(夢物語の現実)と同じ空間で起きています。
分離のないありのままの本当の現実の上に、「私」という自己意識の現れによって、分離の夢物語の現実が上書きされて存在しています。
言い換えれば、「私」が不在の”見かけの”個人(覚者)たちの現実=少数派のありのままの本当の現実と、「私」が確実にあると信じている個人たちの現実=大多数派の分離の夢物語の現実の、異なる二つの現実が、同一空間に同時に存在しているのです。
「私」が不在の見かけの個人の実相は、肉体的、精神的、霊的に熟達していて、高次の叡智で人々を導く賢者であるとか、慈悲慈愛にあふれる穏やかな聖人君子というような、分離の世界の一般的な覚者のイメージとは大きく異なります。
見かけの個人にも、人や物事の好き嫌いもあれば、どんな思考や感情も湧いていて、どんな経験も起こり得ます。
家族を世話することが起こり、家族の喧嘩が起こり、仕事をすることが起こり、仕事のミスが起こり、恋することが起こり、喜びや悲しみが起こり。
見かけの個人は、分離の世界の「私」たちと同じように、ごく普通に暮らしていて、表向きはごく普通に見えます。
けれども、そこには、「私」・「私の夢」・「私の人生」というストーリーも、よりよい次を求める探求のエネルギーもありません。
「私」が不在の見かけの個人とは、完全に満ち足りたありのままの世界の現れそのものであり、探求者の「私」が根底に抱えているような深刻さや重たさ、不満足感や苦しみはそこには存在しません。
そのたたずまいは、いつも朗らかで笑っていて、大らかで満ち足りていて、幸せな個人であるかのように、分離の世界の「私」たちの目には映ります。
(十牛図「10.入しん垂手」)
それでは、「私」から解放されるためには、いったいどうすればよいのでしょうか?
「私」という分離の夢から醒めて、不満足と苦しみに基いた夢物語の現実から、完全に満ち足りたありのままの本当の現実へと帰還する方策はあるのでしょうか?
いいえ、ありません。
「私」から解放されるための、いかなる方法も道も教えもありません。
なぜなら、こうすればこうなるというような、方法、道、教えのすべては、分離の世界の絵空事。
原因と結果という因果関係も、自由意志や選択も、もともとありはしないのですから。
夢の中の「私」が夢から醒めることを夢見て、夢の中で精神的、霊的な方法や教えを実践して、悟りへの道を探求し続けるほど、夢が強化されていくだけなのですから。
そして、そもそも、「私」は「私」を失いたくなどありません。
「私」は「私の夢」を叶えて幸せになりたいというのに、その一番大切な「私」も「私の夢」も失われてしまうのでは、「私」にとってはたまったものではありません。
「私」は本当はいないとは、自己の存続の危機であり、私にとって最大の恐怖であり、脅威でしかありません。
人は、「私」が不在のありのままの現実を求める一方で、同時にそれを恐れていて、絶対的に拒んでもいるのです。
最後に、冒頭のブログの続きをご紹介しておきましょう。
「ここに、二人のマスターがいます。
一人はあなたの夢を壊そうとします。
それどころか、あなた自身を粉々にしようと待ち構えています。
もう一人は、あなたの夢を強化してくれます。
あなたが精神的、霊的に成長するための深遠な知識を提供してくれます。
さて、どちらのマスターに人気が集まるでしょう?
答えは明らか。
人は自分の夢を強化してくれる人を好み、夢を破壊しようとする人を許しません」
(引用ブログ: 「かんながら」 http://abetoshiro.ti-da.net/ )
次回は、分離の現実からありのままの現実への、道なき未知を突き進んでいきますね。
最後までお読みいただきありがとうございました☆彡